1180年頃の北フランス。カペー王朝の直轄地と地方の有力貴族の領地を示したもの。
サンス大聖堂、側廊のリブを受ける持ち送り


ルイ7世による初期ゴシック大聖堂建設への関与の実態について
『日本建築学会計画系論文集』No. 554、2002年4月、pp. 337-342

 本稿は、これまで漠然と結びつけられて考えられてきていた、フランス王権とゴシック様式の誕生との関連の実態を明らかにしたものである。
 先行研究でフランス王権とゴシック様式の誕生とが結びつけられてきた背景には、初期ゴシック建築が出現したのはイル=ド=フランスであり、その地は当時の王領であったこと、またゴシック誕生の教会堂であるサン=ドニ修道院、またその修道院長シュジェールのフランス王家とのあいだに密接な結びつきがあったこと、そして初期ゴシック様式の大聖堂が建設された司教座の多くが、王立司教座であったことなどが挙げられる。本稿では、これらの背景を改めて確認することで、フランス王家とゴシック様式の成立とのあいだの具体的な結びつきを検証し直したものである。
 ゴシック様式の成立期を考える上で、本稿では初期ゴシック期(1144-1194)とその治世が大きく重なるルイ7世(在位:1137-1180)に注目し、基本的にはルイ7世によるゴシック大聖堂建設への関与の実態を検証することで、フランス王家とゴシック様式成立のあいだの関連性の検証とすることとした。具体的な検証内容は大きく2点に絞られる。1点は、ルイ7世による大聖堂建設に対する経済的援助の有無およびその内容。もう1点は、王立司教座に対するルイ7世の接し方についての再検討である。
 ルイ7世によるゴシック大聖堂建設に対する経済的支援としては、彼が具体的に資金を寄贈した例として知られているのは、パリのノートル=ダム大聖堂に対する200ルーヴルだけであった。また、この金額は高額ではあるが、同じパリ大聖堂の司教モーリス・ド・シュリーはその死に際して100リーヴルを遺贈していることが知られ、またラン司教ゴーティエ・ド・モルターニュは建設中、毎年20リーヴルを、さらに遺産から100リーヴルを寄贈していることが知られ、これらの司教の寄付額と比べたとき、1国の国王の寄付金として200リーヴルという金額はそれほど圧倒的な額ではないことがわかる。
 また、これとは別の援助形態として、サンリス大聖堂の建設に際してルイ7世は各地の有力な聖職者たちに対して寄付を募る勅書を発効ことが知られている。このこともルイ7世による大聖堂建設に対する有力な援助の一つと考えられるが、他の大聖堂建設についてはこうした勅書の存在は知られておらず、またサンリスに対してルイ7世自身が寄付したという事実も知られていない。以上の事実から、ルイ7世が初期ゴシック大聖堂の建設に対して積極的に関与した実例は、パリとサンリスに限られ、それもルイ7世自身が強大なイニシアティヴを示したというものではないことが明らかとなった。
 もう1点の検討事項は、王立司教座とルイ7世との結びつきである。ここでは、10世紀末に王位に就いたロベール2世以降12世紀のルイ7世まで200年弱の歴代5人の国王と王立司教座の関係について検討した。その結果、王立司教座の総数は、ルイ7世の治世は18であり、ルイ6世の治世における9を大きく上回ったものの、その数はルイ6世以前の3人の国王の治世とほぼ同数であった(順に、19、16、17)。さらに国王の集会への司教たちののべ参席数を比較したところ、5人の王たちの治世では順に73人、62人、161人、107人、27人とルイ7世の治世に激減していることがわかった。このことから、ルイ7世の治世には、むしろ王立司教座に対する影響力の低下がうかがえる。このことと対応するように、ルイ7世は国王の権利である、司教の遺産没収権をしばしば放棄している。遺産没収権を放棄した司教座としては、ボルドー、パリ、シャロン=シュル=マルヌ、サンス、ラン、ブールジュが挙げられる。このうち、パリ、ランでは上述の如く、司教たちが自分の遺産を大聖堂建設費用に充てたことが知られているが、これはルイ7世による遺産没収権の放棄がなければ実現しなかったことである。以上のように、ルイ7世と王立司教座との関わりはむしろ消極的なものであり、王権による司教座支配の弱体化が結果的に大聖堂建設に有利に働いたと結論づけられる。
 以上の如く、王権と大聖堂建設の関係性は、フランス国王による積極的なイニシアティヴによるものではなく、むしろ司教座支配の軟化傾向が結果的に大聖堂建設に結びついたと考えられる。

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